最近、読んだ本に内容をほとんど覚えていないことをどうにかしたいと思い、情報カードやPCへの入力を試したりしてみている。ただ、抜き書きを行う場合細かい文節には興味を持つが、本全体が何をあらわしていたかとなるとぼやっとして理解できていない感じもする。

読書は細部について印象を残すのではなく、全体としての作者の主張を理解してこそ本を読んだと言えるとの主張からすればあまり好ましいことではなさそうだ。

「字面をいくら目で追ったとしても、あらすじや要約が言えないようでは、読書をした効果が薄いからだ。要約できることを読んだことの条件にすることによって、いつでも要約できるかどうかを自問するようになる。「で、どういう内容だったの」と人に聞かれて、かいつまんで内容が話せるようであれば、他の人にも役に立つし、自分の読書力を向上させる目安になる。」(p19)

斉藤孝『読書力』

しかし、単純に自分の知らないことだったり、同意したいところや、感心したところ、反論したい部分など、その文に対して興味を持った部分とそれに対してどう思ったかを何とかして書き留めたい欲求が強い。

その手の抜き書きは作者の流れに沿った読書と言うより、自分が自分の興味関心に沿った部分での読書と言える。

「すると、わたしは本をよむのに、じつは二重の文脈でよんでいることになる。ひとつは著者の構成した文脈によってであり、もうひとつは、わたし固有の文脈によってである。それはまったくべつのもので、一本にはならない。(p112)」

梅棹忠夫『知的生産の技術』

梅棹忠夫は面白いことに、読書ノート(この場合読書カードだが)をつける場合、著者の文脈は本を読み返せば良いのだからそれは記録せずに、わたしの文脈にて傍線を引いた箇所が自分にとって大事なのだからそれを記録するという。

呉智英の「断片的な知識・ターム」や「自分の見解」を読書カードへ記録するのもほぼ同様の意図のためだろう。(古本屋に売る可能性がある本は傍線を推奨しないけど)三色ボールペンの場合も色事に様々な文脈で線が引かれることとなる。

それは時間をおいて後から読んだときに以前の自分がどのように読んだかの補助となる。

「十年後、二十年後に読み返したときに、発見があったり感慨をもよおしたりしやすい。誰でも自分が線を引いた本は、あとから否定するにしても、関心を喚起するものだ」

斉藤孝『読書力』

ただ一方で、自分の本でないもの、自分から手放す可能性が高いものに対して書き込みをすることを好まない向きも強い。

「汚れた本の場合は、汚れに応じて安くなる。将来、本を売る場合のことを考えて、無意味に本を汚すことはやめたほうがいい」(p182)

呉智英『読書家の新技術』

基本的に傍線や書き込みは本の汚れとして扱われ、次に読む人にとって好まれないから相場としても落ちるということだろう。呉智英の場合は下取り値が下がるからやめたほうが良いとの穏やかな諭し方だが、図書館の本の場合、公共のモラルなどからの観点で主張する人もいる。

ところで、仮に図書館や古本屋でその傍線の入った本を読んだ場合、わたしはどんなふうにそれを読むのだろう。

自分が人の傍線を見た場合を考えてみても、唐突な箇所であったり、あまり大事そうでないところに傍線が引いてあると意味を理解するのに一瞬立ち止まってしまったりして、好まないようにも思える。流れを阻害する要因となる。

それまでぼくは本に線を引いたりすることはしなかった。父が俳句全集の気にいった句にマーキングをしたりしているのを見ると、むしろ邪魔なものを感じて不愉快だったのだ。

松岡正剛の千夜千冊『哲学ノート』レーニン
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0104.html

ところがそうでない場合もある。注釈として傍線や書き込みが後学者の補助となったり、当時のどのように受容のされたかの資料となったりする場合だ。

「古い洋書を読んだことのある人なら知ってると思うけど、それら洋書の1ページの印刷には、ものすごく広く欄外(マージン)が取ってある。これは空白部分を多く取ることでページ数を増やして儲けてやろう、という嫌らしい商売根性があったわけではない。読者が欄外に注釈を書き込むことを想定して空けてあるわけ。実際、大学の古い本には、先輩たちの注釈やら書き込みがある本がけっこうあった。そうした書き込みがされた本は、それ自体が貴重な知的な財として大学の図書館の価値になっていた。あと、イスラム教の聖典コーランの印刷されたものも、この形式をとっているのを見たことがある。オリジナルのコーラン本文のまわりをぐるぐる巻きに取り囲むように、後の僧侶や注釈者たちのコメントが印刷してある。だから、こうした知のあり方というのは、伝統的なものだと言っていいと思う。考えてみれば、難解なオリジナルの周りに学識あるコメントがついてるというのは実にありがたいものだ。

でも、今では、図書館の本に利用者がコメントを書き込むことは禁止される。」

FREE ANNOTATION いかに私がレッシグの議論をつかって日本の世論をコントロールするか http://orion.mt.tama.hosei.ac.jp/hideaki/freeannotation.htm

「アーサー・ケストラーは天文学の歴史を描いたベストセラー『Sleepwalkers』(日本ではケプラーの章だけが訳されている)で『回転論』を「誰も読まなかった本」と決めつけたが、書きこみがあるということは読んだ証拠である。しかも書きこみは宇宙論を述べた第一章ではなく、天文計算を解説した難解な第二章以降に集中していた。書きこみの主がヴィッテンベルク大学でレティクスの同僚だったエラスムス・ラインホルトだったことがわかると、ギンガリッチの好奇心に火がついた。ラインホルトが書きこんでいるなら、ティコ・ブラーエやケプラー、ガリレオも書きこみを残しているのではないか。書きこみを通して『回転論』が科学革命の渦中でどのように読まれ、どのような影響をおよぼしたのかがさぐれるのではないか。」

文芸評論家・加藤弘一の書評ブログ?:?『誰も読まなかったコペルニクス』 ギンガリッチ (早川書房) http://booklog.kinokuniya.co.jp/kato/archives/2010/05/post_196.html

「美濃部論文と天鼓生という署名の論文からここに引用した箇所は、じつは陸軍省整備局動員課長安井藤治大佐(のち中将、二・二六事件のとき戒厳参謀長、第二師団長、鈴木貫太郎内閣の国務省)が、自分の所持するこの二つの論文に、赤鉛筆で横線をひいた箇所である。安井大佐がなにを考えながらこの線を引いたのか、もちろんわからない。」(p71)

高橋正衛『昭和の軍閥』

注釈として傍線や書き込みが後学者の補助となったり、当時のどのように受容のされたかの資料となったりする。つまり、第三者の「わたしの文脈」も同時に読むこととなる。

同様に電子書籍をネットを経由して傍線、書き込みを共有しようという試みもある。

「閲覧文中のテキストをクリッピング(切り抜き)し、コメントを付けて他のユーザーと共有できる共有機能を提供する。共有は、“同じ箇所を閲覧した他ユーザーのクリッピングとコメント”がQlippyのサイト経由で自動的に表示される仕組み。ページをスクロールさせていくことで、新たなクリッピングとコメントが表示され、表示されなくなった箇所のコメントは自動的に消えていく。」

SpinningWorks、ソーシャルリーディングサービス「Qlippy」α版提供開始 :ベンチャーニュース:Venture Now(ベンチャーナウ)
http://www.venturenow.jp/news/2010/08/02/1807_008610.html

多くの人の書き込みを経た電子書籍が、後から読んだ人にとってその本を理解するための補助輪となるのか、ノイズとなってしまうのか、ニコニコ動画で例えるなら良コメとなるのか、弾幕のように埋まってしまってしまうのかはわからないが、肯定的に捉えるのならば、電子書籍でのコメントの共有はまさにこの読み方となるだろう。

参考URL:

本に書き込みすることに関する資料集
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/hon_kataru/katudou/021-b.html

あなたの本がニコニコ動画っぽくなる日/電子書籍で花開く次世代の読書文化 - デマこいてんじゃねえ!
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20100428/1272449677

知的生産の技術

タイトル:知的生産の技術
作者名:梅棹 忠夫
出版社:岩波新書

読書家の新技術

タイトル:読書家の新技術
作者名:呉 智英
出版社:朝日文庫

読書力

タイトル:読書力
作者名:斎藤 孝
出版社:岩波新書

昭和の軍閥

タイトル:昭和の軍閥
作者名:高橋 正衛
出版社:講談社学術文庫
posted by tyakkue at 11:37 | TrackBack(0) | book | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

涼元悠一『ノベルゲームのシナリオ作成読本』 amazonへのリンク
『ノベルゲームのシナリオ作成読本』
涼元悠一
秀和システム
(画像はamazonへのリンク)



本屋に行ったらがっつり平積みだったため回収してきた。


大まかな内容は、シナリオの構想や世界観の設定、道具、文章を書く際の決まり、構成と伏線、立ち絵などの表現方法等を説明している。面白い、受けるシナリオの書き方講座と言うより、シナリオライターが行う作業の解説と言う印象。

関心を持っていたのが、ライターがどんな事を意識してシナリオを書いているかだったため少々肩すかしの部分もあるが、それに触れていた第8章の構成と伏線は興味を持って読んだ。

特に泣きゲーに言及した部分は書き手はどう思って文章を書いているのか若干触れている部分であるので参照してみると、自覚的な文章が飛び込んでくる。


しかしながら……実際に作り手になってみて、実感したことがあります。
単に泣きゲーをつくるだけ(*1)なら、そう難しくはないということです。

*1;「だけ」にルビあり
P177


なぜなら古来から使われてきた手法である事から分かるように、人間は本能的に泣く生物だからである。

又、泣きゲーの中でどう構造を持っているかというと、物語の前半部分で日常パートを描き、後半部分にて話を暗い方向へ向ける展開する構造を持ち、その流れに沿って泣かす方法を「萌やし泣き」と呼んでいる。

終盤の泣かせ方については第9章の特出演出でも触れているが(P216)、それよりも序盤の日常パートにていかにプレーヤにヒロインを印象づけるかが大事だと言うことである。


総じて、先人の積み重ねの結果、泣きゲーのテクニックは確立しており、それに沿ってシナリオを書けば成立しますよ、と説明しているのだが、


かくしてヒロインは今日も不幸になり、ストーリーはお涙頂戴に自ら向かっていきます。
ですが……これだけは言えます。
単なる泣きだけを突き詰めれば、その先は袋小路でしょう。
(中略)
いつかプレイヤーの舌も肥え、ただ泣けただけの作品を褒めそやすことがなくなれば……
その時、『感動系ゲーム』も『泣きゲー』も次のステップに立っているはずです。

P180


と限界にも自覚的な発言をしている。

正直泣きゲーのジャンルに関しては、既に何年か経過したが結局keyを上回る評価を得る模倣者が出なかったせいか、TYPE-MOONに話題の中心を持って行かれたせいか下火になっているようにも思えるが、動向をちっとも抑えていないのでよく分からない。


後、実況的一人称を初めて意識的に使った人として新井素子を挙げている部分(P127)や、昔、Leafのコンテンツ、俺にしゃべらせろに載っていた文書(開発者の「俺にしゃべらせろ!!」No.7 -脚本 : 青紫)を思い出す基本文章おさらい等を楽しく読んだ。
タグ:涼元悠一
posted by tyakkue at 01:12 | TrackBack(0) | book | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
メディアファクトリー『タラ・ダンカン』検索結果
http://www.mediafactory.co.jp/cgi-bin/list.cgi?keyword=%A5%BF%A5%E9%A1%A6%A5%C0%A5%F3%A5%AB%A5%F3&find_button=%3CSPAN+class%3Dmenu_01%3E%B8%A1%A1%A1%BA%F7%3C%2FSPAN%3E&category_id=13


本屋で棚をぽちぽち眺めていたら村田蓮爾の絵が表紙の本に気が付いた。

どうやらメディアファクトリーから出版されている『タラ・ダンカン』と言う本らしい。

表紙だけで挿絵などはないようだ。

それにしても村田蓮爾は良いなぁ。実際にどういう絵かは上記メディアファクトリーの検索結果から見てもらいたい。すこぶる可愛らしい。


殊に2の下巻の表紙はいつもの胸部までの絵や立ち絵とは違い、少々動きがある絵でとても新鮮。この巻だけイラストレーターが変更になったかと思ったくらいだ;-P
posted by tyakkue at 18:10 | TrackBack(0) | book | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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